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新潟中越地震

 今回の地震に関して、ようやくエントリーすることができる。新潟中越地震は、我が家にも様々な影響があった。今回の震源地・小千谷市の隣の川口町に、祖父母と親父の兄家族の家と、親父の妹家族の家、いとこ家族の家がある。そして、新潟市に別のいとこが一人暮らしをしている。
 
 小千谷市を震源とする地震があった後、両親に電話をすると、祖父母宅に連絡が取れないとのこと。安否の状況がわからず、不安だった。その日の深夜3時ごろになって、ようやく新潟市に住むいとこから連絡があり、家族の無事を知らせてくれた。いとこも、祖父母宅と連絡が取れるまでかなりの時間がかかったそうだ
  
 今回実は、祖父母を埼玉の僕の実家で預かることになった。祖父母が余震でかなり精神的に参っているとのことだった。父親が車で新潟まで行ったのだが、その時点では、川口町は公式には孤立状態から脱していない状況だった。なんとか長野県の方から入り、祖父母を迎えにいった。「大宮ナンバーの車が、どうやってここに来たのか」と注目されたらしい。祖父母は川口町から脱出した人の第二号だったそうだ。
 
 その後、実家で祖父母から地震の話を聞いた。実家に帰ると、髭が伸び、疲れきった様子の祖父と、頭と手にバンドエイドをした祖母が迎えてくれた。埼玉に来てまだ2日とはいえ、この表情がすべてを物語っている。まるで戦争体験を語るかのごとく、僕に地震の話をしてくれた。
 
 地震直後、祖父は納屋の二階で作業をしており、脱出しようにも、停電の状態で物が散乱し、階段を認識できなかったという。祖母は足腰が弱いものの、リビングにある長机をつたって、なんとか外に脱出。二人とも靴を履かないまま出てきたので、近くにあった木の板の上に載り、足の冷たさを凌いだそうだ。田舎には、各家の玄関などに石油タンクがあるのだが、その石油タンクは倒れ、石油が漏れ出していたという。火の気があったら、間違いなくアウトだっただろう。
 
 家の前の広場に避難したところで二回目・三回目の大きな余震、ここで祖父が先ほどまで居た、家の隣の納屋が倒壊した。祖父母宅は兼業農家なのだが、高い農機械、そして、自分で愛着をもって育てていた野菜・米がつぶれてしまったことに、大きく落胆し、悲しんでいた。
 
 幸い、住居のほうは家の中が散乱していただけで、倒壊はしなかったが、家の裏にある崖に亀裂が入り、実質もう住める状況ではないという。この家は、40年前の新潟地震でも、周囲で唯一崩れなかった家で、祖父母も長く居て愛着があったようで、家の建替えは、何度も祖父母の反対にあったようだ。
 
 この家は父親の生家でもあり、そして僕にとっても、昔から遊びに行っていた場所だ。祖父母は長男・長女同士の結婚で、戦前ともありとても親戚が多い。盆暮れになると、よく親戚が集まっていた。また、ここ育ったいとこは大きくなり、家を巣立った後、また孫と連れてあの家に遊びに来るようになった。またあのように、親戚一同、子供を囲んで集まれるのは、いつになるのだろうか。
 
 話を戻す。地震直後、祖母が怪我をしたので、町の診療所に叔父が連れて行ったところ、不思議と同じ川口町でも、影響がなかった地域もあったそうだが、やはりがけ崩れが起きている箇所は多く、なんとか車が通れるほどの幅のところを通り、診療所についたそうだ。ちなみにそんな状況なので、地震直後に叔父といとこは、町外にいて、川口町に車で帰れず、徒歩で帰宅したという。
 
 テレビ報道で、支援物資が届かないうちは、「一食につきおにぎり一つだった」という声が聞かれたが、川口町でも同じ様子だったそうだ。農家が多かったので、少しばかりの食料を皆で持ち寄ったそうだ。その後祖父母は体育館に避難した。
   
 体育館での避難はやはりストレスがたまるものだったようだ。いつまた余震が起きるか分からない状況で、「おい覚悟しとけ」と冗談を言い合いながらも、恐怖におびえていたそうだ。今回の地震の震源が浅いせいか「ドーン」という音が下から聞こえ、その後に地震が来るそうだ。

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