翻訳と日本の近代
本書ではなぜ日本が翻訳主義をとったのか、どういう人が、何を、どのように訳し、または訳さなければならなかったのかという論点を中心に、加藤氏が丸山氏に対して問いかける、問答形式で構成されている。特に、ペリー来航から日露戦争までの日本が話題の中心となる。
なぜ翻訳主義、ということに関しては、西洋というものに日本が触れた際、何を日本の母国語にするかという議論や自由民権運動にも密接に関係している。本文では、森有礼の「大和言葉には抽象語がないから、大和言葉に頼っていたのでは、とても西洋の文明を日本のものにすることはできない 英語を国語にしろ」という議論に対し、馬場辰猪の「言葉が違えば、一つの国をなさない。上流階級と下層階級ではまったく言葉が違ってしまう。英語をものにするのは大変だから、重要な国事から下流階級が締め出される」という論争があったことも紹介されている。
明治初頭までには、翻訳された本は既にあふれかえっており、「訳書読法」という、翻訳本をどうやって読むかという本も既に出版されるに至っていたという。1853年のペリー来航から、わずか30年ほどということになる。
何の書物が翻訳されたかに関しては、歴史書の翻訳が多く、開国にあたりどこの国がどこにあるのかを知る必要性から出てきたものであるという。ではなぜ、歴史的なアプローチが取られたかというと、日本には長年隣国に中国を置き、その文明を解釈するには常に歴史的なアプローチが有効だったからだとする。ヨーロッパにおける、ギリシャ・ローマの軸に対して、日本には中国があった。
また他の書物に関して、明治初頭には軍事関係、兵法に関するものが多かったという。また、自然科学においては、工業技術をのぞくと、物理・数学などより、化学が中心となった。化学に関しては、織物産業のための染料、軍事のための火薬に関する技術の開発が急がれていたという理由のようだ。明治維新後に桐生では、染織り技術や洋式織機が導入されている。明治20年には西洋の経営法を採用した日本織物株式会社の工場が誕生し、量産体制を確立して、以降の国内外の需要に対応した。なお軍の近代化に関しては、その後の軍国主義に進んだ道を見れば、影響は明らかである。
その他本文においては、どのように訳したのかという訳語に関する細かい論点、またそれらの訳した本がどのように日本に影響したかなどのダイアローグが掲載されている。
筆者は最後に、翻訳文化という手段は文化的「一方通行」であるとし、近代日本を特徴付けているとしている。日本の国際的な自己主張はまず軍事力にはじまり、敗戦後には経済力であったとする。筆者はその方法には限界があり、日本の文化的な自己主張が必要であるということを示唆している。



